最初のパンデミック ユスティアヌスの疫病 |
||
2020年8月25日 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。 ドブネズミを含めた齧歯類感染症のお話の第13回目です。ネズミとの関連では中世に爆発的流行をもたらした黒死病 Black Death について触れない訳には行きません。人類史に、また生物としてのヒトに与えた影響は甚大なものがありました。新型コロナウイルスも汎世界的な流行を見た点で pandemic ですが、解説を通じ、黒死病との類似点、相違点を考える為のヒントをお掴み戴ければ幸いです。その第8回目です。 再び https://en.wikipedia.org/wiki/Bubonic_plague 並びにhttps://en.wikipedia.org/wiki/Plague_(disease) 、その他の記述を参考に、人類史との関係について数回に分けて解説を加えて行きましょう。 初回のパンデミックはユスティアヌスの疫病と称されるものですが、単に東ローマ帝国皇帝ユスティアヌス1世統治下の時代に起き、皇帝自身も感染したことのみならず、感染拡大がそれが抱える領土、通商交易と密接に関与するがゆえの命名ですので、史料を元に少しじっくり見ていきましょう。 以下、本コラム作成の為の参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/腺ペストhttps://en.wikipedia.org/wiki/Bubonic_plaguehttps://www.etymonline.com/word/bubonichttps://ja.wikipedia.org/wiki/ペストhttps://en.wikipedia.org/wiki/Plague_(disease)https://en.wikipedia.org/wiki/Epidemiology_of_plaguehttps://ja.wikipedia.org/wiki/ペストの歴史https://en.wikipedia.org/wiki/Sasanian_Empirehttps://ja.wikipedia.org/wiki/サーサーン朝https://ja.wikipedia.org/wiki/東ローマ帝国https://en.wikipedia.org/wiki/Byzantine_Empirehttps://ja.wikipedia.org/wiki/ユスティニアヌス1世https://en.wikipedia.org/wiki/Theodora_(6th_century)https://ja.wikipedia.org/wiki/テオドラ_(ユスティニアヌスの皇后)https://ja.wikipedia.org/wiki/サン・ヴィターレ聖堂https://en.wikipedia.org/wiki/Plague_of_Justinianhttps://ja.wikipedia.org/wiki/プロコピオスhttps://en.wikipedia.org/wiki/Procopiushttps://ja.wikipedia.org/wiki/コンスタンティノープル |
||
ペストの人類史最初のパンデミックユスティアヌスの疫病最初に記録されている流行はササン朝ペルシャ並びにその最大のライバルであった東ローマ帝国(ビザンティン帝国、395-1453)に影響を及ぼし、ユスティアヌス1世に因んでユスティアヌスの疫病と名付けられた。ユスティアヌス1世はこれに感染したが幅広い様々な治療のお蔭で生き延び得た。この疫病は結果として凡そ2500万人(6世紀の大流行時)から5000万人(2世紀間の再勃発で)の死者をもたらした。歴史家のプロコピオスは『戦史』の第二巻にて、この疫病への彼の個人的な遭遇体験、並びに勃興しつつある帝国に対するその影響について記している。542年の春に、疫病はコンスタンチノーブル(東ローマ帝国の首都、現在のイスタンブール)に到達し、地中海を巡り港町から港町へとその道を拓いて行った。やがて、内陸に侵入し小アジアを東へと進路を取り向かい、また西方はギリシヤとイタリアへと向かった。内陸に於いてはこの伝染病は、当時の贅沢品を得、消耗品を輸出するせんとのユスティアヌス1世の施策のもと、商品の輸送に拠り拡散したが、それ故に、彼の帝国の首都は腺ペスト拡散の第一の中心地となった。プロコピオスは彼の著作『秘史』の中で、ユスティアヌス1世は、自身が疫病を作り出しその罪業の深さで罰せられた悪魔の皇帝であると明言している。*ペスト拡散の様子について詳細な記録が残されていることに驚きますが、高度な文明を築き上げていたローマ帝国関連のことですから宜なるかなと合点も出来ますね。疫病の視点から世界史を紐解くのも非常に面白ろそうです。 *プロコピオスは皇帝ユスティニアヌス1世の名将ベリサリオスに仕えた第一の学識者ですが、『秘史』の中では皇帝並びに将軍等のスキャンダルを裏話として暴露しています。関係者が死に絶えた後に世に出たものですが、これは和訳本が出ています。一方、『戦史』 全6巻については和訳本は出ておらず、英訳の完全版が History of the Wars of Justinian (English Edition) Kindle版 として600円弱でアマゾンにて入手可能です。 *皇帝ユスティニアヌス1世は戦争を繰り返し、領土はほぼ地中海沿岸全域にまで拡大しましたが、ペストの流行以降は帝国の力が衰えを見せ始めました。この様に、疫病の流行後に支配体制が弱体化し、それを奇貨として周辺敵対勢力が侵入、支配することは多くの歴史家が指摘していることです。 *交易の拠点である東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルをコアとして、帝国内の通商ルートである海路、陸路を通じてペストが拡散した訳ですね。 *拡散の経路は、次回お話する第2回目の pandemic と良く似ていて、おそらくは、中央アジアに存在していたペスト菌がアジアとヨーロッパの交易のカナメであるコンスタンチノーブルに持ち込まれ、そこから海路にて地中海沿岸に拡大、内陸を通りヨーロッパに浸透するとの図式です。アルプス山脈は越えられずそれの北方域(未開のゲルマン系が居住)には影響は少なかった訳です。 *この頃本邦は第29代欽明天皇の時代ですが、百済から仏教が伝来する一方、朝鮮半島の拠点である任那を失いました。物部氏と蘇我氏の二極体制が構築されますが蘇我氏が更に絶大な権力を手にし始めます。 *15世紀以前の自らの歴史記録も遺し得ていない国や民族が非常に多い中、日本はまだしも記録を遺していますが、暴露本を出すほどまでの成熟したリテラシーの域には遠く及びませんでした。 *最初のパンデミックの際に、数千万人が死亡しましたが、この 800年後にも、為す術無く、同じ事が繰り返されることになります(その間にも小流行は繰り返されました)。この間、ペスト菌自体は僅かな変異を生じただけで病原性なども同じままでした。 |
||