腺ペスト 第二のパンデミック 黒死病 |
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2020年9月1日 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。 ドブネズミを含めた齧歯類感染症のお話の第15回目です。ネズミとの関連では中世に爆発的流行をもたらした黒死病 Black Death について触れない訳には行きません。人類史に、また生物としてのヒトに与えた影響は甚大なものがありました。新型コロナウイルスも汎世界的な流行を見た点で pandemic ですが、解説を通じ、黒死病との類似点、相違点を考える為のヒントをお掴み戴ければ幸いです。その第9回目です。 再び https://en.wikipedia.org/wiki/Bubonic_plague 並びにhttps://en.wikipedia.org/wiki/Plague_(disease) 、その他の記述を参考に、人類史との関係について数回に分けて解説を加えて行きましょう。 2度目のパンデミックは第1回目のパンデミックの800年後に起きたBlack Death 黒死病として知らぬ者はない西洋史上の大事件ですが、モンゴル帝国の領土拡張策と密接に関与もしてきます。今から700年足らず前の出来事であり、歴史的記録や資料も数多く残されていますので、それらを元に少しじっくり見ていきましょう。 以下、本コラム作成の為の参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/腺ペストhttps://en.wikipedia.org/wiki/Bubonic_plaguehttps://www.etymonline.com/word/bubonichttps://ja.wikipedia.org/wiki/ペストhttps://en.wikipedia.org/wiki/Plague_(disease)https://en.wikipedia.org/wiki/Flagellanthttps://en.wikipedia.org/wiki/Ibn_al-Wardihttps://ja.wikipedia.org/wiki/アル=マクリーズィーhttps://en.wikipedia.org/wiki/Al-Maqrizihttps://ja.wikipedia.org/wiki/モンゴル帝国https://en.wikipedia.org/wiki/Mongol_Empirehttps://ja.wikipedia.org/wiki/ジョチ・ウルスhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ウラル山脈https://ja.wikipedia.org/wiki/フェオドシヤ中世民衆の葬制と死穢: 特に死体遺棄について勝田至史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (1987),70(3): 358-392Issue Date1987-05-01https://doi.org/10.14989/shirin_70_358https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/238921/1/shirin_070_3_358.pdf(無料で全文入手出来ます) |
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第二のパンデミック黒死病中世晩期にヨーロッパは歴史上最も致死率の高かった疾患の大流行に見舞われた。1347年に襲来した黒死病即ち悪名高き腺ペストのパンデミックであるが、ヨーロッパ人口の3分の1が死亡したのである。大量死が人命の価値を下げるに従い、社会が実質的により暴力的になり、斯くして戦争、犯罪、民衆による反乱(Popular revolts)、鞭打ち (Flagellant) の流行、迫害行為、を増大させたと信じる歴史家も居る。黒死病は中央アジアに発し、イタリアそして次に他のヨーロッパ諸国中に拡大した。アラブの歴史家イブン アル−ワルドゥニ (1291/1292- 1348/1349) とアル=マクリーズィー(1364年 - 1442年)は、黒死病がモンゴルに発したと信じていた。中国の記録でも、1330年代の初頭にモンゴルで莫大な流行が起きたことが記されている。2002年に発表された研究論文では、1346年初頭にステップ(草原)地域で流行が始まったことを示唆しているが、そこでは、カスピ海の北西岸から南ロシアへとペストの保菌動物が拡大したとされる。モンゴル帝国 は中国とヨーロッパの間の通商ルート即ちシルクロードを遮断し、これは東方のロシア側から西ヨーロッパに疫病が拡大するのを停止させるに至った。しかし、クリミヤの Caffa カーファ(現在のフェオドシヤ)にあるイタリア商人の最後の通商拠点をモンゴル人が襲撃したのに伴い流行が始まったのである。1346年の終わり近く、モンゴル包囲軍の間で流行が勃発し、彼らからカーファの町にペストが侵入した。春が到来するとイタリア商人は船に乗り込み逃げ出したが知らずに黒死病を運んだのである。ネズミに付いたノミに拠り運ばれて、ペストは最初は黒海近くの人間に広まり、次いでそこから1つの地域から他の地域へと次々に、ペストから逃げる者達に拠り、ヨーロッパの残りの地域に広がった。*現在でもモンゴルや中国北部のステップ(草原地帯)でマーモット(大型の地リス、プレーリードッグを頑強にした姿です)猟に関与していた者が、しばしばペストを発症していますので、その地域でペスト菌が維持され、それが人為活動を通じて世界にもたらされるとの考えは十分首肯出来るところだと思います。その出現と拡散の様式については、実はコロナ禍も似た様な側面を持って居ます。 *何も熱帯雨林のジャングルに潜む動物に病原体が維持され、それに接触して街中に持ち込んだ人間を起点に感染爆発するとの図式(エイズやエボラ出血熱がこれに該当する)ばかりではなく、アジア大陸内陸部の乾燥した草原地帯の動物が、危ない病原体の維持・供給源となり、世界中に大量死をもたらす図式も無視出来ない、いや、こちらの方が寧ろ大迷惑である、とも言えそうです。今回のコロナ禍の出自はまだ不明ですが、野生動物の狩猟(毛皮、食肉、愛玩用途)は安全性が担保されているもの以外は全面禁止させるのも手でしょう。野生動物の狩猟で生計を立てている類いの細民らの営為が、また、感染症の管理下に無い野生動物の肉を嗜好する民俗風習並びにそれを許容している国家の衛生概念低き姿勢が、実際のところ人類全体に巨大な災厄をもたらし得る訳です。 *ボッカチオ作のデカメロン冒頭に、フィレンツェに於いてはペストで1348年には半年間で10万人以上が死亡したとの記述があります。この第2波即ち黒死病の流行の他、小規模な流行(とは言っても数万〜数十万人程度の死者を出した)がヨーロッパ各地で18世紀まで続くのですが、フィレンツェの街の記録を中心として別コラムにて取り上げる予定です。 *大流行で隣人や身内がバタバタと死んでいく中では、現世御利益型の宗教は存在を許されず、死後の復活を唱える型の宗教以外は<生き延び>られませんね。また死体は抜け殻に過ぎず、死後は魂は抜けて別なところに向かうとの教義であれば、疫病発生時の死体処理にも合理的な対応が取れます。と言いますか、感染を避けたいとの念がその様な<合理>を教義に持ち込み、強めた可能性もありそうです。これは何もキリスト教のみならず、死体への穢れの念(病気がうつると言うより死後の変容−死体現象 Post-mortem changes−への恐怖?)の強かったとされる本邦の中世−身内のみが死者の弔いを行い、それ以外の者は関与しない、使用人、或いは貧者の身内は捨て置かれる−にも見られた事でした(中世民衆の葬制と死穢: 特に死体遺棄について、勝田 至、史林 (1987) https://doi.org/10.14989/shirin_70_358)。アフリカのエボラ出血熱の流行に際しては、葬儀時に棺の中の死体に親戚等が抱き付く習慣を通じ、感染が拡大していくことが指摘されています。死体に対する<割り切り>の念、忌避の念が薄い様ですが、これも感染症についての正しい知識の普及を通じ、この先変化していくかもしれません。即ち、強力な感染源、病の巣窟としての死体の認識への強化です。 |
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