腺ペスト 黒死病と社会 フィレンツェの事例 |
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2020年9月20日 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。 ドブネズミを含めた齧歯類感染症のお話の第18回目です。ネズミとの関連では中世に爆発的流行をもたらした黒死病 Black Death について触れない訳には行きません。激烈な大流行の後にも、その残余が波及し、その度に街によっては数万〜数十万人の死者数を出しています。根本的な治療法が無く、ペスト菌のプール源として様々な都市やその近郊に常に少数の感染者が存在し、また保菌動物である小型齧歯類が棲息する状況にありましたので、他から一度街中にペストが持ち込まれ拡大すると、感染流行の再燃を止める事がほぼ不可能でした。 今回は、その様なヨーロッパの街であるイタリアのフィレンツェの事例をメインにご紹介しましょう。まぁ、1つの街、地域から見たペストの実相を探るとの perspective (視点)です。 以下、本コラム作成の為の参考サイト:腺ペストhttps://ja.wikipedia.org/wiki/腺ペストhttps://en.wikipedia.org/wiki/Bubonic_plaguehttps://www.etymonline.com/word/bubonichttps://ja.wikipedia.org/wiki/ペストhttps://en.wikipedia.org/wiki/Plague_(disease)https://en.wikipedia.org/wiki/Epidemiology_of_plaguehttps://ja.wikipedia.org/wiki/ペストの歴史ペストの時系列https://en.wikipedia.org/wiki/Time line_of_plagueボッカチオhttps://www.brown.edu/Departments/Italian_Studies/dweb/boccaccio/life1_en.php2003年11月5日に改正された感染症法の対象疾患(「感染症発生動向調査事業実施要綱」による)http://idsc.nih.go.jp/iasr/25/287/t28711j.html |
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*フィレンツェ + ペストの語の組み合わせと来れば、ボッカチオ(1313−1375)のデカメロンを想起しない者は居ないでしょう。*以下のブラウン大学の web site のジョバンニ・ボッカチオの生い立ちの内、ペスト並びにデカメロンに関連する記述を抜き書きします:https://www.brown.edu/Departments/Italian_Studies/dweb/boccaccio/life1_en.php1340-41ボッカチオはフィレンツェに戻る。街が前年の疫病で荒廃しているのを知るが、(ジョバンニ・ビラーニの年代記に拠れば)それで人口の1/6が死に絶えた。1348フィレンツェに戻り、1348年の壊滅的な疫病(黒死病)を目撃した。数万人が死んだが、これは1340年の死者の少なくとも3倍である。犠牲者の中には、ボッカチオの父親、新たな義理の母も居た。全く突然に、家族の財産として遺されたもの、並びに養い維持すべき一家をも引き継いだ。1349-51これらの年は実際デカメロン作成の年であるが、それについては我々は知る事が殆ど無い。1350年に短期間ラヴェンナ(フィレンツェの反対側のアドリア海に面した街)に戻った。これはオサンミケーレ寺院の知り合いからの使命であったが、シスターベアトリーチェ(ダンテの娘、ラヴェンナの聖ステファノ修道院の修道女)即ちそこで30年以上前に没した偉大な流浪の詩人の相続人に、遅くなったが10枚のフローリン金貨を返却したのである。*デカメロンの創作過程については情報が殆ど得られていない模様です。ところで、下記のペストの流行の時系列では1347年に初めてヨーロッパにペストが入ったとされていますが、ボッカチオは1340年にフィレンツェに戻り、前年の1339年に疫病で街の1/6が死亡したと知ったとされています。それではこの疫病は何だったのかの疑問が残ります。詳細な記述が無く見当が付きません。スペイン風邪或いはコレラの様な感染症だったのでしょうか? *ボッカチオがダンテを評価し、彼の詩作に 『神曲』 の名を付けた事はよく知られているのですが、彼がダンテの娘と実際に会い、しかもその娘の名がベアトリーチェと言うのには驚かされます。因みに、院長は大学の教養課程時代に 『神曲』 を翻訳されたばかりの平川祐弘先生の講義を選択し、確か試験では鎌倉仏教の地獄の構成と 『神曲』 のそれとを比較論考せよの設問が出ましたが、仏教の地獄の階層構造との対比を書き連ね評価Aを戴いたことを記憶しています。尤も、受講生は10数名程度でしたので全員Aが貰えたのかも知れませんが・・・。思い出しましたが、当時某学部某学科のとある講義科目では、採点前にまず教授が全員にAを点け、そののちにゆっくりと答案を見るとのことでした。 https://en.wikipedia.org/wiki/Timeline_of_plague ペストの時系列*このサイトに掲載される表の項目の内、イタリアに関連性があるものを抜き書きして和訳します。上記との対応を見て下さい。1347イタリア商人が感染したラットを船に乗せ、コンスタンチノープルからシチリアへとペストを運び込んだ。この地がヨーロッパで最初の黒死病感染地となった。同じ年にベネチアもペストに見舞われた。1347-1350この間の大流行時に、医者はペストの予防並びに治療について全く為す術を持たなかった。彼らが試みた治療法には、調理した玉葱、10年物の糖蜜、ヒ素、砕いたエメラルドを用いる、下水管の中に座る、室内で大きな炎に挟まれ座る、ハーブで部屋をいぶす、神が罪ゆえに病気で罰するのを止めさせようとする、などである。自身を鞭で叩きながら行進することも行われた。1348イタリアの作家ジョバンニ・ボッカチオは彼の著作 『デカメロン』 中にペストの症状について記述している。1361-1364この間の流行中に、医者は横痃(リンパ節の腫脹)を破裂することで患者の回復を助ける遣り方を知った。1374黒死病の流行がヨーロッパで再び出現した。ベニスでは様々な公衆衛生的な制御、例えば健康な者から患者を離すとか病気を抱えた船舶を港への上陸をさせない、などが設けられた。140330日間の隔離は短すぎることを知り、ベニス当局は東地中海のレヴァント地域からの旅行者は病院で40日間隔離するよう指示した。イタリア語の40 quarantena 或いは40日 quaranta giorni から、英語の quarantine 検疫、隔離の語が生じた。1629-1631この間、イタリアでは腺ペストの一連の流行を見た。ロンバルディと他の北イタリア領土内で28万人が死亡したと算定されている。イタリアのこのペストはその地域の人口の35〜69%の命を奪ったとされる。 |
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*ロンドンでの1665年のペスト大流行で市内人口の1/4が亡くなりましたが、17世紀に至っても黒死病の余波、或いは小波は途切れることなくヨーロッパ各地で続いていた訳です。現在でも本邦に於いてはペストは、エボラ出血熱、クリミア・コンゴ出血熱、痘そう、南米出血熱およびラッサ熱、マールブルグ病と共に1類感染症に指定されています。確定診断を受けた後で(実際には疑わしい段階で)感染症指定医療機関への入院が知事より勧告されます(強制入院!)が、1類感染症でペスト以外は全てウイルス感染症であり、細菌感染に拠るペストの特異性がここに浮上します。まさに困った感染症ですね。これで抗生剤の効かない変異ペスト菌が誕生したらどうなるのかと考えるとゾッとします・・・。 *以下の youtube 動画は、1300〜1700年の間にフィレンツェに襲来した黒死病を纏めたドキュメントフィルムです。La peste nera a Firenze (Black Death in Florence )2017/01/25 Conosci Firenzehttps://youtu.be/4zq_tAplFjs ヨーロッパの各都市は皆この様なペストとの壮絶な歴史的背景を抱えている、との認識は日本人には持ちにくいかと思います。現地では、激烈な流行のさなかにあっては生き延びるのが精一杯であり、対策や予防を行う精神的余裕や活力も持てず、かと言って近代医学の成立以前にはペストに対しては為す術が無いのが実情であり、これでは教訓らしい教訓を学び蓄積することも出来ません。今回のコロナ禍はペスト流行時の社会の反応と類似するとの指摘は方々から挙がっていますが、幸いにしてコロナ感染症の死亡率や臨床症状面ではペストに比べるまでもなく、本当に恐ろしい感染症が将来的に発生した際の予行演習並びに見直しが、今回なんとか幾らかは行い得た、と考えればまだ納得も行くでしょう。 *フィレンツェの例を考えても、繰り返し何度もペストの洗礼を受けましたが、菌の病原性がマイルドになる訳でも、人々の免疫力や耐性が上がる訳でもなく、神に訴えても神は無言を貫き命は明日とも知れない有様でした。それでもキリスト教そのものに対する打ち壊し等の破壊行為が無かったところから判断するに、相当に頭の良い者が坊主に就き、教義の整合性を図り、事態を切り抜けたと言う事なのでしょう、と、心情的仏教徒の院長がふと思い浮かべた次第です。 *イングマール・ベルイマン監督作品 『第七の封印』 の中に、鞭打ち行者の隊列を率いる男が、老いも若きも王も庶民もいつ死ぬかは分からないと叫ぶシーンがあるのですが、これは、和漢朗詠集の「朝に紅顔あって世路に誇れども、暮(ゆふべ)に白骨となって郊原に朽ちぬ」の心境と同じですね。但し、彼らは死に神が命を奪いに来るとの視点で考えるのに対し、仏教では各人が自然に且つ勝手に死んでいくとの思想であるのが大きな違いでもあるでしょう。因みにこの映画の中に少女が魔女狩りに遭い火あぶりにされるシーンがありますが、さるロシア人youtuber の配信を見ていたところ、ギリシヤ正教下の東欧では魔女狩りが起こらず、カトリック圏のポーランドから西側で魔女狩りが起きたとのことでした。黒死病と魔女狩りは文字通りの西欧の2大黒歴史でしょう。 |
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ペストの第2波のパンデミック、即ち黒死病の実態を知れば知るほど、「これは非道い」以外の表現が無くなります。次回からは第3のパンデミックに入ります!もう嫌になったと言わずに事実を事実としてまずは眺めて下さい。毒を喰わば皿までも、とも言いますし・・・。。 |
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