腺ペスト モンゴル帝国とペスト |
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2020年10月1日 皆様、KVC Tokyo 院長 藤野 健です。 ドブネズミを含めた齧歯類感染症のお話の第20回目です。ネズミとの関連では中世に爆発的流行をもたらした黒死病 Black Death について触れない訳には行きません。人類史に、また生物としてのヒトに与えた影響は甚大なものがありました。新型コロナウイルスも汎世界的な流行を見た点で pandemic ですが、解説を通じ、黒死病との類似点、相違点を考える為のヒントをお掴み戴ければ幸いです。その第15回目です。 今回は<生物兵器>としてのペスト感染症利用について解説して行きましょう。まぁ、モンゴル帝国絡みの話です。彼らが利用した馬も当然ながら生物兵器ですが、こちらの話も重ねます。 以下、本コラム作成の為の参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/チンギス・カンhttps://en.wikipedia.org/wiki/Genghis_Khanhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ジャーニー・ベクhttps://en.wikipedia.org/wiki/Jani_Beghttps://ja.wikipedia.org/wiki/元寇https://ja.wikipedia.org/wiki/万里の長城https://ja.wikipedia.org/wiki/蒙古襲来絵詞文明の生態史観梅棹 忠夫 (著)中央公論社 (1967/1/20)、 258ページASIN : B000JA7LX0 |
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戦時でのペストの生物学的利用生物を戦争に利用した最も初期のものの幾つかはペストの産物だったと言われてきている。と言うのは、14世紀には感染死体を武器として利用し、街や村の壁越しに放り込み悪疫を拡散したことが報告されているからである。これは、ジャーニー・ベク(キプチャクハン国、ジョチ・ウルスの第12代当主)が1343年にカファの街を襲撃した時に行ったと伝えられている。後に、第二次大戦時の日中戦争にて、日本軍がベストを生物兵器として使用した。これは石井部隊が準備し実戦で使用する前に人体実験でまず使用された。例えば、1940年に、帝国陸軍航空部隊は腺ペストに感染したノミを寧波(ニンポー)市に投下した。ハバロフスク戦争犯罪裁判法廷で、被告の1人である川島清少将は、1941年に731部隊の40名の隊員がペストに感染したノミを湖南省常徳市にて空中投下したと証言した。これらの実験により、ペスト流行が発生した。 |
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*ジャーニー・ベク(モンゴル帝国、元を構成する国、即ちハンの1つで南ロシア一帯を支配したキプチャクハン国、別名ジョチ・ウルスの第12代当主、チンギス・カンの直系子孫)はジェノヴァが植民地として領有するクリミア半島の交易拠点都市 カッファ を占領するため数度の攻撃を掛けましたが、1347年にカッファを包囲した際、軍内にペストが蔓延して撤退を余儀なくされました。このペストは中国で蔓延していたものがモンゴル軍に感染したものですが、それが西に拡大して来た訳ですね。 *撤退の際に、「ジャーニー・ベクはジェノヴァ軍に呪詛の言葉を叫び、ペストに感染した兵の死骸を町の中に投げ入れた」と伝えられています。 これは1343年とも主張されていますし、また伝聞情報に基づくものですのでそもそも真実と言い切れるかは不明です。これが真実との前提で話を進めると、当時、感染者の死体に触れるとペストに感染することは経験的に十分に理解されていた筈ですので、敵側をペストに感染させて弱体化させる意図を含んでいたのは明白であり、死体を立派な生物学的兵器として利用したことになります。カファを脱出したイタリア商人が黒海の西岸を南下してコンスタンチノーブル(現在のイスタンブール)に逃げ延びましたが、ペスト感染したノミを付着させたラットを船に乗せていたか、或いは船員が感染していたかですが、これがヨーロッパを蹂躙する黒死病の幕開けとなりました。 *と言う次第で、黒死病の起源は東西のカナメのポイントにて、ペスト感染症を起こそうとする人為的、意図的な要因が挟まっていたと考えることも出来そうです。尤も、この様な行為が無かったにせよ、第1波のユスティアヌスのペストの時の様に、アジアからの感染が早晩東西交易の拠点であったコンスタンチノープルに自然に伝わった事は十分に想定される様にも思います。ユーラシア(アジア側)の乾燥平原地帯の遊牧民−帝国を構築すると言えども基本は収奪の民であり、文化面での人類への貢献は現在に至るも低いままと院長は考えます−が、どちらもペストの発端役或いは媒介役を担ったことに違いは無かろうと思いますが。 |
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*モンゴル帝国に関してですが、広大で乾燥した平原ゆえに、究極の地上疾走性哺乳類として特異的に進化してきた馬を利用し、何も無いがゆえにその馬を最大限の武器として活用し周辺の文明国からの収奪を糧として発展したのがオリジンだろうと、院長は動物学的視点から考えています。背景状況は異なりますが、黒澤明監督の『七人の侍』に登場する、百姓集落を襲撃し略奪を図る野武士集団を思い浮かべもします。 *この当時のモンゴル人は馬を戦争の為の生物兵器として利用し、一種の共存関係にあったとも言えるでしょう。但し、馬は立体的な地形には弱く、詰まりは山地なる自然の要害が自ずと彼らの勢力の限界線になりますね。自分達の拠点を中心とする二次元平面延長上の、単純な戦略の展開に留まる訳です。近代に至り、モータリゼーション発達の前には軍馬の用途は形無しとなりました。 *その時世下での最強の武力+領土的野心を握った者達或いはその支配下にある民族・国家が、異なる見解を持つ相手に対し、人権意識など毛ほども持たずに侵攻し、生物学的に抹殺・殺戮する、或いは女性を暴行して自分らの子孫を孕ませる、のがちょっと前迄の流れでしたが、先進国と他から呼ばれる国々は現在ではこの様なあからさまな遣り口は執りません。欧州では20世紀末に起きた南スラブ人同士の内戦を主体とするユーゴスラビア紛争がこの形式の最後だったでしょうか?尤も、この紛争では相手を制圧し得る<近代>兵器をいずれの側も持たず、泥仕合合戦の様相でしたが。 *同じアジア大陸南方の海側の平地−水資源が潤沢にある4大文明の発祥地−に栄えた東アジアモンゴロイドの一派である漢民族は、北狄と蔑称した異民族遊牧民の度重なる襲来に古来より苦しめられ、モンゴル人の元、満州人(女真族)の、金、清に一時は支配されるに至りました。苦肉の策として万里の長城を拵える迄にも至りましたが、特に、秦の始皇帝から漢の時代に建造されたものは草原の中を横断して建て廻らされ、これは明らかに馬侵入の防止柵と言う訳です。日本人は東アジアモンゴロイドの中では少数派として孤島に居を構えた民族ゆえ、2度の元寇襲来(元とその属国である高麗連合軍による本邦侵略、文永の役 1274年、弘安の役1281年))を除いては異民族−海戦のノウハウ並びに海洋気象データの蓄積に乏しい−からの襲撃に悩まされる事はありませんでした。尤も、:元寇が1つの原因となり、鎌倉幕府がその基盤を弱体化させ滅亡へと繋がった訳です。これは第2のペストの pandemic 発火の凡そ70年前の出来事になります。 *馬と人間との関係についてはまた後日分析を加えコラム化して行きたいと考えて居ます。 |
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